儚い?
そんな言葉じゃ物足りない
052:わたしはきっと、何一つ守れないまま朽ちていくの
精密機器のだす微音は羽虫の音にも似て耳の奥へ残る。わずかばかりの振動が耳の奥の螺旋を震わせてどこか落ちつかなげに根底を揺らす。開発を主軸とするこの施設は常にコンピュータが稼働しており、小難しくてややこしい計算を繰り返している。慣れるまでは機械の出す微音にちょっとした均衡を崩される事態を味わうことになる。船酔いや車酔いの予兆のような落ち着かなさとなって現れるそれの所為で、その人間が新人かどうか判るほどだ。ライは最近ようやく慣れてきた。シュミレータに乗ったりして経験を積んだおかげだろう。今では微音を羽虫の立てる翅音として処理できるように慣れた。
戦闘機の微調整を繰り返し終えて、専用のスーツを着脱するための控室のベンチにライは腰を下ろしていた。パイロットスーツは密閉性や気密性が高いから脱ぐと体が解放されたようなほっと息をついたような気になる。発汗作用や熱の上下運動にも軽微だが影響があるので長時間の着用は歓迎されていない。喉仏あたりから留め具を外してそのまま下へ引き下ろす。腰のあたりへわだからせたまま、ライは茫洋とベンチの上にいた。専用の飲料にも手をつけていない。胸部をサポーターが覆っている。細身でこそあるが鍛え上げられた白い腹部が見え、尖った腰骨が覗いた。同僚となった枢木スザクの見立てではライは戦闘術の、かなりの巧者であるという。運動や戦闘機のGに耐えることなどに順応できるのもそのたまものなのだろうか。戦闘のたびに感じる昂揚を、ライはどうしたら良いかもてあましていた。戦闘で興奮するなんて、ただの狂人でしかない。
「どうしたの? また難しい顔しているよ。せっかく笑うようになったのに」
ひょこりとスザクが顔をのぞかせた。ライと同じように腰まで下げられたパイロットスーツがしわになっている。そこへ手を当てて仁王立ちになりながら器用にライの顔を覗き込む。
「…久しぶりにゲットーへ行きたい」
スザクは案の定渋い顔をした。租界とゲットーは明確な格差社会を体現している。租界の人間がゲットーに行くのは無防備な人間が戦闘現状に放り込まれるに等しい。要するによく思われていないから諍いや暴力沙汰、犯罪に発展しやすいのだ。また租界の人間もゲットーの住人を社会的な最下層民としか見ていないから侮蔑か同情か偽善の眼差しでしか見ないし、手助けもしない。
「あの荒涼が僕の居場所なんだと思う」
「そんなことはないと思う、って言ったらダメかな。僕は、君の居場所をここだあそこだなんて言えないけど、ゲットーはあまりにも危険すぎるよ。だからもしそうだとしたら変更した方がいいっていう」
スザクが隣へ腰を下ろす。飲料の蓋を開けるとバネのように飛び出す吸い口にスザクは口をつけた。そのまま飲料を呑んでいる。喉がこくりこくりと上下する。ライの目はそれを無為に追いながら戸惑いをその双眸へ湛えた。
ライの目が手元の飲料へ移ろう。とろりと半固体状態にとろみのついたそれがちゃぷんと揺れる。
「僕は何も出来ない。僕が誰かも判らない。だから僕はきっと何一つできずに朽ちて死んでいくんだと思う。…敵の戦死者という道連れを連れて」
びく、とスザクが震えた。飲料をとり落としそうになっているのをライは不思議な気持ちで眺めていた。平素から屈託なく素直なスザクだが、話題がある一点に触れると別人のように動揺し、憤怒し、悔恨に悶える。それが何かライは知らないし、知る必要もないと思っている。時期がくればスザクから打ち明けてもらえると信じている。だがそれは婉曲に、スザクの拒否を恐れているだけなのだということにも同時に気付いている。ライの目は冷静にスザクを見据える。鶸色をしたスザクの双眸はくるりと丸く大きい。愛らしい顔立ちだが彼の戦闘能力は一級品だ。少し毛先の撒いた紅褐色の髪は短く切られている。凛とした意志の強さを示す太い眉筋に引き締まった口元。
気付くとスザクがライを凝視していた。
「なんだ?」
「ライって綺麗だなぁって思って。その髪の色も目の色も。肌が僕より白いから…ブリタニア人の血があるのかもしれないなぁッて」
ライは亜麻色の髪を不揃いに遊ばせ、その髪は毛先へ行くほど蜜色に透き通る。白い肌は当人が意識していないほど肌理細かく官能的に白い。皮膚が薄いのかと思わせるほどライの唇は紅い。だからキスしたいな。スザクがサラッと言って退ける。こういうことを照れずに言えるスザクは器がでかいのか大馬鹿者なのか評価が割れるところだ。
「いいよ?」
「え?」
「キスくらい、いつしてもいいよって。…僕は僕の体に愛着がないから、どう扱われてもいいんだ」
時限爆弾を抱えた体だ。他者によって施された工夫と同時に得た絶対的な特殊能力。王の力。王の力はお前を孤独にするぞ、気をつけろ。こういった謎の声が誰かライはまだ知らない。おやすみ。そう言って記憶がぶつりと切れるこの声の主が誰かも、ライは思いだせない。だからライはもうどうでもよいと思っている。特殊能力と言っても万能ではないから乱発すれば負荷がかかる。その負荷がなんであるかをライは知っている。だからライはそこに知りあいを巻き込みたくなかった。
「ライ、それは褒められたことじゃないと思うけど。みんな反対するし怒るよ、きっと。特にロイドさんとか…デヴァイサーなんて言うけどあの人いい人だから僕らが怪我すると顔が真っ青になるんだよね」
最後の方はくすっと笑いを含めてスザクが締めくくる。スザクは屈託なく笑う。明朗闊達な性質なのだ。それでも時折見せる彼の影がライの気を惹いた。アッシュフォード学園の前は学校に行っていなかったこと。もともとは軍属の一般兵士であったこと。ライがスザクについて知っていることなどその程度だ。戸籍部署などへ問い合わせればある程度の情報は得られるだろう。だが知らない方がいいこともあるんだと、ライは半ば直感的なそれに従っている。
「スザクは僕とキスなんかして気持ち悪くないのか」
イレヴンかもしれない。ブリタニア人かもしれない。その混血であることはスザクには話していない。サンプルの分析結果を見たロイドがその場に居合わせたセシルとの三人だけの秘密だと言ったのだ。逆らうような理由もないからライはしたがっている。だからスザクはロイドが裏技を使ったというIDの情報を信じ切っている。初めのうちこそ、誠心誠意接してくれるスザクに混血であることを言えないのがつらかったがいつしか慣れた。スザクにもライに言えぬことがあるように、ライ自身もスザクに言えぬことがある。それはどこにでもありふれたお互いが上手くやっていくための秘匿だ。全てを知ってしまったら付き合いはそこで終わってしまうとライは思っている。
ライは飲料のボトルを右から左、左から右、と器用に投げ渡すように持ちかえる。そこそこ器用であると感じさせる動作をスザクは興味深く見守っている。
「気持ち悪くないよ。だって僕は、その…き、君が好きだから、さ…」
その言葉一つでライの中が切り替わる。あァ駄目だ、と思う。守りたくなってしまう。得難いものを得たとき人は保守的になる。だからライは、スザクと言う好意を寄せてくれる人間を拒否できないしなくしたくないし、守りたい。けれど。
「……僕はきっと、君を守れないよ」
――マエダッテホラ、ボクハタイセツナヒトタチヲマモレナカッタジャナイカ、チカラマデテニイレタノニネ!
ずきん、と頭の奥が痛む。目を開けていられない。目の奥が脈打つように痛む。能力使用の負荷を今、受けている。要するにつけを払っているのだ。ライは顔を伏せた。
「ライ」
ゆっくりと痛みに響かぬようにライが顔を上げる。痛みに目を眇める。同時にスザクが何だか眩しいような気がして眇めた目がスザクを見つめた。白目が消えそうなほどに潤みきった薄氷色が群青へと色を変える。その双眸を見据えてスザクは朗らかに笑んだ。
「君が僕を守ろうとしてくれるのは嬉しい。だから僕も君を守るよ」
全開の笑顔のスザクが愛しい。そのスザクがたとえ嘘でもお愛想でもいいから、ライを好きだと言ってくれる。それが嬉しかった。人から好かれるということがこんなにも心地よくとろけるように嬉しいなんて。
ふわ、とスザクの手がライの頬に触れる。
「泣いてるよ、ライ」
ぼろぼろと涙があふれて止まらなかった。ぐず、と洟をすすりしゃくりあげる。
「…――ッ…」
目の前がにじむ。スザクの顔がにじんで判らない。スザクが泣いているのか笑っているのか。
「ライ、笑って。僕は君の笑顔を守るよ」
スザクは慈母のように優しく神のように穏やかに、それが赦しであるかのようにライに語りかけた。そしてそれがライの中へ浸透する。心地よい侵蝕だった。犯されているという意識があるのに、体はあっという間にスザクへ従った。体が開いて行くのが判る。性交渉ではないのにスザクの熱が浸透し、ライの熱がスザクへ流れ込んでいく。その流動がとろけるように心地よかった。
「大丈夫だよ、ライ。僕が君を、守るから」
ライの喉が引き攣る。自分は一度、大切なものを守るのに失敗している。それを言わなければ、と。だがスザクはそれを遮って言いきった。
「君が僕を守れなくても、僕が君を守るんだ。それでいいじゃないか」
スザクがにっこりと、何でもないことのように言った。
ライは泣き叫びたかった。
《了》